サークル室に、夕方の陽が差し込んでいた。柔らかなオレンジ色の光が、カーテン越しにぼんやりと床を照らしている。空気は静かで、まだ少し冷たさを残した季節の匂いが、ほんのりと漂っていた。
その中で、なつめは机に突っ伏すようにして眠っていた。ペンを握ったままの右手。少し開いたままのノート。ページには、基本情報技術者試験のアルゴリズム問題が、途中まで丁寧に解き進められていた。
「……寝てしまったんですね」
片付けの手を止めた夕凪は、机の向こうにある小さな寝息に気づいて、静かに視線を向ける。眠りの深さよりも、その表情の穏やかさに胸を打たれた。あまりにも自然な寝顔だった。触れたくなるほど、静かでやわらかくて、起こすのが惜しいと思うほどに。
少し前までは、なつめがこんな風に黙って努力する人だなんて、想像もしていなかった。言われたことを丁寧にこなし、いつも周囲に柔らかな笑顔を向けていた彼女。けれど今は、自分の意思でノートを開き、知らない言葉と格闘している。
誰かの期待に応えるためじゃない。ただ、自分がそうしたいと思ったから。たとえ誰にも気づかれなくても、彼女は静かに前へと進んでいる。
「……頑張ってますね、朝比奈さん」
思わず声に出していた。けれどそれは、届くための言葉ではなかった。むしろ届かないからこそ、そっと零れてしまった本音だった。
くすぐったくなるような誇らしさと同時に、胸の奥に小さな寂しさが差し込む。自分は、その全部を見ていないのだ――彼女がどんな夜を過ごしてきたのか。わからなかった問題に、どんな顔をして向き合っていたのか。ページの隅に書かれたメモが、どんな気持ちから生まれたものなのかさえ。
本当は、手を差し伸べてほしかった瞬間も、あったのかもしれない。それでも彼女は、何も言わずに、自分の足で、ここまで歩いてきた。
すごいと思った。誇らしいとも思った。そして、ほんの少しだけ……寂しかった。
この先、彼女がもっと遠くへ行ったとき、自分はどこまで隣にいられるだろうか。彼女が誰かに迷った気持ちを打ち明けたとき、それを受け取る相手は、自分であり続けられるだろうか。
「すごいですよ、あなたは」
誰にも届かないような、小さな声でそう呟いた。もちろん返事はない。なつめは、微かに寝息を立てたまま、穏やかな呼吸を繰り返している。
そっと、椅子の背にかけられていたカーディガンを手に取る。静かに、その肩へとかけると、わずかに身じろぎをした彼女が、眉間をひくりと緩めた。
起こす代わりに、夕凪は彼女の隣の席に腰を下ろす。机の角に肘をついて、何気なく窓の外へ目をやった。
陽の色が、ゆっくりと変わっていく。昼と夜のあいだを溶かすように、オレンジが深まり、室内の影がわずかに伸びる。いつの間にか、まぶたの裏に焼きつくようになった彼女の横顔が、色を変える空に重なるように感じられた。
「もう、導く立場じゃないのかもしれませんね」
自分がかつて、そうだったように。頼られることで、必死に立ち続けた日々もあった。けれど今、彼女はもう、自分で選んで進める人になっている。誰かに「こうしなさい」と言われることを待つのではなく、自分で考え、自分の意志で扉を開けようとしている。
――まぶしいな、と。
心の中で静かにそう思った。そうして彼女がこの先、どんな道を進んでいくのかを考えると、なぜだか胸の奥が、ひどく温かく、そして少しだけ切なくなった。
