『……いい男の人だよね』
紫苑の何気ないその一言が、なつめの心にいつまでも残っていた。
何度も反芻するたびに、その言葉がただのからかいではなく、自分が今まで見落としていた視点を突きつけるようなものだったと気づく。夕凪未来は、サークルの代表で、いつだって冷静で穏やかで――頼れる人。けれどそこに、男の人という輪郭を意識したことが、今まで一度でもあっただろうか。
そんなことを思っていると、どうしても目で追ってしまう。
夕凪は今日も変わらない。資料を整理しながらメンバーに配り、端的で的確な説明を加えていく。表情は柔らかく、声は落ち着いていて、どこまでも冷静だった。
だけど、今日のなつめは、どこか落ち着かない。
呼吸のリズムが、いつもより微妙に乱れている。心臓の鼓動が、自分だけやけにうるさく響いて感じられる。自分でも理由がよくわからなくて、余計に焦る。
「この資料、分かりにくいところがあれば、補足を加えますね」
机の反対側から、ふいに夕凪が身を寄せるようにして覗き込んでくる。その動作に、なつめの肩がぴくりと跳ねた。
顔が――近い。
ほんの少し、目の前にあるのは夕凪の横顔。長い睫毛、眉間のやわらかな影、言葉の前にわずかに動く喉元。それらがすべて、妙に鮮明に目に入ってきた。
「……っ」
「朝比奈さん? 具合、悪いですか?」
「い、いえっ、大丈夫です! ちょっとびっくりしただけで!」
慌てて言葉を継ぎ足す。声が上ずっていることに、自分でも気づく。なのに、視線がうまく戻せない。逸らそうとしても、自然と夕凪の姿を追ってしまう。
――近い、近い、近い……なにこれ。なんでこんなにドキドキしてるの。
わかってる。夕凪さんはいつもと同じ。声のトーンも、動作も、言っていることだって変わらないのに。変わってしまったのは、自分の方だ。
きっかけは、きっとあのカーディガン。
あのとき感じた温かさと、そっと肩にかけられていた優しさ。そこから、なにかがゆっくり動きはじめて、今こうして、こんなふうに意識している。
わたし、もしかして……。
その先の言葉は、まだ喉の奥に引っかかったままだった。だけど、はっきりとひとつだけ分かる。
もう代表としての夕凪さんしか見ていないわけじゃない――ということ。
資料の内容なんて頭に入ってこない。代わりに残るのは、低く優しい声の響きと、ふいに近づいたときの距離感。
いつから、こうなったんだろう。
夕凪の指が資料の端に触れて、それを少しだけ動かす。自分の指先との距離はわずか数センチ。その小さな距離でさえ、今は息を止めてしまいそうだった。
こんなに近くにいて、でも何も知らないことばかりだ。どんな香水を使っているんだろう。どんな音楽を聴くんだろう。好きな色、苦手な食べ物、休みの日の過ごし方――。
今までは気にならなかったのに、今は、知りたいと思ってしまう。
ようやくカーディガンを返せたのは、三日後のことだった。
「……あの、これ。ありがとうございました」 そっと手渡したその布には、もう夕凪の温もりは残っていない。けれど、その瞬間――手がわずかに触れた気がして、なつめの胸はまた、跳ねるように熱くなった。
