彼女の隣にいたい理由

「合格、しました」

 その報告は、サークル活動の帰り際、ふいに差し出された一枚の紙とともにだった。そこに記されていたのは、見慣れたロゴとともに印字された四文字。『基本情報技術者試験 合格』。なつめの手元で、白い紙はほんの少しだけ震えていた。

「すごいですね、朝比奈さん。本当に、よく頑張りました」

 夕凪未来は、コピー用紙を両手で丁寧に受け取りながら、自然と笑みを浮かべた。それは形式的な言葉ではなく、心からの祝福だった。試験という枠を越えて、この報告がどれだけの努力の果てにあるものかを、誰よりもよく知っていたから。

 なつめは、照れたように頬を染めて、それでも嬉しさを隠しきれない様子で微笑んだ。

「ありがとうございます。……未来さんが、最初に取った資格だったから。わたしも頑張ってみようって、思えたんです」

「そう言ってもらえると、光栄です」

 やわらかな会話のやりとり。けれどその裏で、夕凪の胸の奥には、ひとつ小さな波紋が広がっていた。

 目の前のなつめは、誇らしげで、輝いていた。誰かの支えに頼りながらも、それを力に変え、自分の足で立った人の表情だった。迷いのあった目は、自信に満ちた光を宿している。

 もう、自分が教える立場である必要は、ないのかもしれない。そのことに気づいたとき、喜びと同じくらい、胸のどこかがぽっかりと空いたような感覚にとらわれた。

 思い返せば、なつめが持ってきた疑問に一緒に悩んだ時間。ふたりで机を囲んで、問題集の端に小さく書き込みをした日。何気ない質問にも、なるべく丁寧に答えようと心がけていたのは、教える立場の責任感だけではなかった。

 自分の中で、いつの間にか知識を渡すことが、彼女の隣にいる理由になっていたのかもしれない。

「本当に、素晴らしいです。次は、何を目指すんですか?」

 なるべく自然な口調で問いかける。けれど、それが自分自身の立ち位置を探ろうとするような問いでもあることに、気づいていた。

「え?」

 なつめは少し驚いたように目を瞬かせた。それから、ふわっと笑った。

「まだ決めてないんです。でも、今度は誰かに教えられるくらい、もっと知りたいなって。わたしも、誰かの役に立てるようになりたいって、最近思うようになったんです」

 その言葉に、夕凪の胸がまたきゅっと締めつけられる。誇らしさに似た喜びと、それと同じくらいの寂しさが、交差する。

 もう、必要とされる理由を手放してもいいのなら。

 それでも隣にいたいと願ってしまう自分を、どう扱えばいいのだろう。

 その問いに、まだ明確な答えは出せない。ただひとつ言えるのは、彼女の成長を、これほどまでに喜んでいる自分がいるということ。それがすべての始まりだった気がする。

「きっと、すぐに誰かに頼られるようになりますよ。……あなたなら、きっと」

 口にしたその言葉が、自分にとって少しだけ切ない別れのようにも感じられたことに、夕凪自身もまだ、完全には気づいていなかった。

 けれど、それでも。

 ひとつの目標を越えたその先で、また彼女が新しい景色を見ようとしていることは、何より嬉しかった。たとえ自分の役割が終わってしまったとしても、その未来を支えたいと、素直に思えた。

 けれどもし、これからも彼女の隣にいる理由が、教える人ではなくなるとしたら。

 自分は何者として、彼女のそばにいたいのだろう。

 その問いが、いつしか静かに胸の奥に沈んでいた。確かなかたちを持たないまま、けれど日々の中で、少しずつ大きくなっている。

 彼女の喜びを、自分の喜びとして受け止めたこの瞬間のように。  そうやって、きっと関係は少しずつ変わっていくのだ。もう、あの距離には戻れないのだと気づき始めていた。