金曜の夜。仕事帰りのビル街には、オフィスの残光とコンビニの灯りがゆるやかに滲んでいた。にぎやかすぎず、静かすぎない空気の中で、なつめは立ち止まったままスマホの画面を見つめていた。
「今日もお疲れさまです」
「今度、少しだけお話できませんか?」
メッセージの文面を打っては消し、また書いては指を止める。気がつけば、ホーム画面とキーボードを行ったり来たりする指先が、すっかり冷えていた。
……変に思われるかな。急にだなんて。
それでも、どうしても伝えたい気持ちがあった。ずっと近くにいたはずなのに、ふとした瞬間、ほんの少し遠くなってしまったような違和感。それは、時間や距離のせいだけじゃない。話さなくなってしまったこと。話せなかったままの想いがわたしの中に、静かに積もっていた。
ちゃんと話したい。あの頃みたいに素直にまっすぐに。そう思って、ようやく指を動かした、その瞬間だった。
着信音が鳴る。
画面に浮かぶ名前に、思わず息が止まる。
【夕凪未来 着信中】
「……えっ?」
驚きで固まったまま、ゆっくりと通話を受ける。スピーカーから響いたのは、変わらない、あの落ち着いた声だった。
『こんばんは。今、大丈夫でしたか?』
「っ、はい、大丈夫です! ちょうど、連絡しようとしてて」
『それは奇遇ですね。……実は、少しだけ、お会いできないかと思って』
「わたしも、そう思ってました」
重なる言葉に、ふっと小さな笑いが混じる。画面越しでも、なつめの頬がゆるんでいくのがわかるようだった。
待ち合わせたのは、駅から少し歩いた場所にある、小さな喫茶店だった。会社帰りにも寄れる静けさが心地いい、大人向けの空間。木製のテーブルと落ち着いた照明の下、ふたりは向かい合って座った。
「最近、お仕事はどうですか?」
「まだまだ慣れないですけど……頑張ってます。未来さんは?」
「私も、相変わらずですね。プロジェクトが切り替わるたび、覚えることばかりです」
互いの近況を語りながらも、どこか探るような間が残る。安心できる声のはずなのに、少しだけよそよそしさが混じってしまうのは、きっと――言葉にできなかった想いが、まだ宙ぶらりんだからだ。
やがて、なつめが静かにカップを置いた。香りがふわりと立ちのぼる。その余韻を吸い込むようにして、彼女はそっと口を開いた。
「……あの、夕凪さん」
言葉は柔らかだったけれど、内側には確かな決意が込められていた。
「最近少し距離ができちゃった気がしてました。たぶんそれは、わたしのせいでもあるんですけど。でも夕凪さんと、前みたいに……いろんなことを話したいなって、思ってて」
胸の奥で絡まっていた糸をひとつひとつ解きほぐすようにして、なつめは自分の想いを口にする。緊張のせいか少しだけ肩が上がっていたけれど、その姿はまっすぐで誠実だった。
夕凪は、一拍置いてからゆっくりと微笑む。照れたような、でもどこか安堵したようなその笑みを見て、なつめの胸がふわりと軽くなった。
「実は、私も同じことを考えていました。教えるという理由がなくなっても、朝比奈さんと過ごす時間が心地よかったのだと、最近ようやく気づいたんです」
「夕凪さん」
「ですから、もしよろしければ、もう一度始めませんか? 学ぶでも、教えるでもなく、話す人として。
……隣にいても、いいですか?」
夕凪の言葉は相変わらず穏やかだった。でも、その一言がなつめの胸に優しく、深く響いていく。
心がきゅっと締めつけられる。嬉しくて、少しだけ泣きそうで、けれどそれ以上に、あたたかかった。
「……もちろんです。隣にいてください。これからも、ずっと」
並べられたカップの間に、小さな手がそっと差し出される。その距離が、ふたりの心の距離を象徴するようだった。
ようやくふたりの間に横たわっていた沈黙が、ゆっくりと、でも確かに溶けていく。喫茶店の窓の外では、金曜の街が静かに夜を迎えようとしていた。
