待ち合わせは、午前十一時。まだ少し肌寒さの残る春の風が、通り過ぎるたびに頬をかすめていく。
私服姿で並ぶのは、ずいぶん久しぶりだった。
「お待たせしました。朝比奈さん」
「いえっ、わたしも今来たところです!」
軽く笑い合うその瞬間から、空気がほんのりと和らぐ。お互いに緊張しているわけではないのに、どこか普段とは違う感覚がある。いつもはスーツやオフィスカジュアルに身を包んでいるふたりが、少しだけリラックスした格好で並んで歩く。それだけのことが、どうしようもなく新鮮で、少し照れくさくもあり、なんだか特別に感じられた。
今日はサークルの代表と後輩ではなく、一人の青年と一人の女性として、穏やかに時間を過ごす日なのかもしれない。そんな予感が、静かに胸の奥に灯る。
「今日は、行きたいところあるんですか?」
少し早歩きになりそうな気持ちを抑えながら、夕凪がそう尋ねる。
「実は、夕凪さんにおすすめしたいカフェがあって。前に後輩に教えてもらったんですけど、雰囲気も良くて」
「それは楽しみですね。朝比奈さんのおすすめなら、間違いなさそうです」
そう言って笑いかける表情がいつもより少し柔らかく見えた。肩を並べて歩くうちに、自然と歩幅が揃っていく。会話の合間に流れる静けさも、どこか心地よくて。その沈黙すらもふたりをやさしく包み込んでいた。
目的のカフェは、駅から少し歩いた住宅街の中にひっそりと佇んでいた。木造の外観に、優しい色合いの看板。ガラス越しに見える観葉植物と木のテーブル。そして店内に漂うほのかなコーヒーの香り。それらすべてが、ふたりの訪れを歓迎してくれているように思えた。
「すごくいい雰囲気ですね」
「ですよね。ちょっと穴場なんです」
にこっと笑うなつめの横顔に、夕凪もつられるように頬を緩める。ふたりは並んで窓際の席に腰を下ろした。午後の日差しが淡く差し込む席で、ふたりはメニューを開きながら、ふっと息をつく。
「こうやって、外でゆっくりするの、久しぶりかもしれません」
「私もです。最近は仕事と自宅の往復ばかりで……でも、だからこそ、こういう時間は大切ですね」
温かい飲み物の湯気が、ゆらゆらと揺れる。それを挟んで交わされる言葉が、だんだんと心の奥まで届いていく。
「うん。……あの、来てくれて嬉しいです」
なつめが静かにそう口にすると夕凪は少しだけ目を細め、穏やかにうなずいた。
「わたしの方こそ。あなたと一緒に過ごせて、とても嬉しいです」
運ばれてきた紅茶の湯気の向こう側で、ふたりは自然に微笑み合った。交わしている会話は、特別な話ではなかった。最近観た映画の話。職場の同僚が言っていた冗談。どれもささやかな、日常のひとこま。
けれど、そのすべてが――なつめには、かけがえのない温度を持っていた。
この時間が、終わらなければいいのに。そんなふうに思ってしまう自分がいることに、なつめはふと気づいた。
……これって、もう、ただのサークルの先輩じゃない。
わたし、未来さんといると、こんなに心が落ち着く。
紅茶をひと口含みながら、こっそりと横目で隣を見る。穏やかな表情でティーカップを持つ夕凪は、まるで最初から隣にいる人のように自然で、頼もしくて。でも、今はほんの少しだけ遠くにいるようにも思えてしまった。
――もう少し、近づきたいな。
言葉にはできないその想いを、胸の内にそっとしまいながら、なつめは静かに、隣の温度を感じていた。
