カフェを出た夕方、街にはほんのりとしたオレンジ色の空が広がっていた。低く差し込む夕陽がアスファルトの上に長い影を落とし、風は少しだけ肌寒さを連れてくる。けれどその風さえも、今日のふたりにはやさしく感じられた。
なつめは小さく息を吐いた。隣を歩く夕凪の足音が、規則正しく響いている。いつもよりゆっくりしたその歩幅に、自然と自分も歩調を合わせていた。ふたりの靴音が、並んでひとつのリズムを刻んでいることが、少しくすぐったくて、でも嬉しかった。
並んで歩く帰り道。会話はとぎれとぎれ。けれど、不思議と気まずさはなかった。沈黙が、ふたりの間に流れる時間を壊すどころか、そっとやさしく繋いでくれているよう。言葉がなくても伝わるものがある。そんなふうに思える沈黙だった。
……楽しかったな。
そう思った。もっといろいろ話したかったし、聞きたいこともあった。けれどそれを急かさず、今日という一日が静かに流れていくのを、ただ大切に抱えていたい。そんな気持ちだった。言葉にするよりも、歩幅を合わせるだけで通じるような、そんな時間。
時間が、ゆっくり流れていくような不思議な一日。何も特別なことはなかったのに、それでも心はずっと温かくて、何度も振り返りたくなるような光が残っていた。帰り道でさえ、その続きを見ているような気がしていた。
そして、信号を渡る瞬間。横断歩道の中央、並んだふたりの手が、ふと近づく。ほんのわずか。手の甲が触れるか触れないかという、絶妙な距離。
次の瞬間、まるで示し合わせたかのように、ふたりは同時に、ぴくりと手を引っ込めた。
「ご、ごめんなさいっ!」
「す、すみません!」
言葉が重なって、思わず顔を見合わせる。互いの頬がわずかに紅潮しているのが分かる。それに気づいた瞬間、どちらともなく、ふっと吹き出してしまった。
「そんなに謝るほどのことでもなかったですね」
夕凪が、少し照れたように笑う。その表情がいつもより柔らかくて、なつめの胸がまた少しだけ騒いだ。
「はい……すこし驚いてしまって。ですが、別に嫌だったわけでは、なくて」
なつめも、言葉を探しながら答える。鼓動が少し早くなっているのが、自分でも分かる。それでも、自分の正直な気持ちは、隠したくなかった。
「ええ、私も同じです」
短く交わされたその言葉に、胸が静かに高鳴る。視線がまた、合う。けれど、ふたりともすぐに逸らして、それぞれ違う方向を見たまま、数歩分の沈黙が続いた。
足元に落ちる影が、夕陽の中で隣り合って長く伸びている。ふたりの影が、まるでそっと手を繋いでいるかのようだった。
「……手、冷えてました?」
不意に夕凪がそう尋ねる。その声は、あたたかくて優しい。やわらかな街の音に紛れて、なつめの心に真っ直ぐ届いてくる。
「少しだけ」
「じゃあ、もうちょっとだけ……歩きましょうか。ゆっくり」
「はい」
なつめは、小さくうなずく。手を伸ばしたわけではなかった。でも、確かにあの瞬間、なにかが触れ合った気がした。
触れない距離のまま。けれど、指先はちゃんと、お互いの存在を覚えている。何も言わなくても、そのあたたかさが確かに残っている。
夕暮れの街は、だんだんと夜の帳に染まりはじめていた。空の色がオレンジから藍へと溶けていくその途中、街灯がぽつぽつと灯りはじめる。
その空気の中に、どこか少しだけ甘くて切ない香りが混ざっている気がして、なつめはそっと目を閉じた。
心が少しだけ、未来に向かって動き出している。そんな気がしていた。
