朝比奈さんが好きなんですね

 いつものようにパソコンの前に座り、プロジェクトの資料を整えていた夕凪未来は、ふと手を止めた。静かなオフィス。昼休憩が終わったばかりのはずなのに、思考の奥がひどく騒がしい。

 気がつけば、さっきから画面の文字がまったく頭に入っていなかった。タスクは山積み、提出も迫っている。なのに、意識は別の場所にばかり引き戻されてしまう。

 頭の中にあるのは、たったひとつの名前――朝比奈なつめ。

 最近、ふとした拍子に思い出すことが増えた。サークルの一角で並んでノートを広げていたときの横顔。試験に合格したと報告してくれたときの、ほころぶような笑顔。久しぶりの休日に一緒に歩いた帰り道。無言が怖くなくて、でも少しだけ照れくさくて、そんな時間。

 ほんのわずかに触れかけた手と、同時に引っ込めて、慌てて謝り合った瞬間。

 どれも、ただのサークル仲間としての出来事。後輩。社会人としての同志。肩書きや関係性に、無理やり枠をつけて整理しようとしていた。けれど。

 それでも。

「気づかないふりをしていただけでした……」

 静かに洩れた独り言が、誰もいない部屋の中に溶けていく。

 教えることがなくなったときに感じた空白。隣にいないときの、微かな物足りなさ。連絡がない日は理由もなくスマホを気にしてしまう自分。ふとした会話で笑い合えたときの、胸の奥の弾み。

 他の誰かと楽しそうに話している姿を見て、心の奥がざわつくあの感覚は、きっと――。

 これは、好意じゃなくて、尊敬なんだと。教え子として、後輩として大事に思っているんだと、何度も自分に言い聞かせてきた。

 でも、それではもう説明がつかない。

「……わたしは、朝比奈さんが好きなんですね」

 口にした瞬間、胸の奥にふわりと灯るものがあった。それは苦しさではなく、むしろ静かに満たされていく感覚だった。まるで、長い間胸の奥にしまい込んでいた感情に、ようやく名前がついたような。

 好きというのは、こんなにも静かで、でも確かに世界の色を変えてしまう言葉だったのか。今さらのように、それを知った。

 思い返せば、なつめはいつも誰かの一歩後ろにいるような人だった。けれど気づけば、自分の隣で、同じ速度で歩いていた。そして今はもう、自分の意思で道を選び、前へ進んでいる。

 そう思うと、少しだけ誇らしくもあった。でも同時に、寂しさが胸の内に静かに沈んでいくのも確かだった。

 ならば、自分は――どうするべきなのだろう。

 何を伝えるのが正解なのか。どこまで踏み込んでいいのか。すぐに答えは出ない。だが、こうして気づいてしまった以上、何もしないわけにはいかない気がした。

 きっと、なつめはもう、自分のそばにいなくても一人で歩いていける人だ。強くて、まっすぐで、優しい人。でも――。

「それでも、もう一度」

 彼女と向き合いたいと思った。サークルの代表としてでも、頼れる先輩としてでもなく。

 ただ、一人の人間として。気持ちを持つ者として。

 たとえこの気持ちが届かなかったとしても、後悔のないように。自分が本当に望んでいる未来に、ちゃんと目を向けてみたい。

 それが叶わなかったとしても、せめて、今の気持ちだけは誠実に向けたかった。

 静かに、けれど確かに、夕凪未来の胸の奥で、新しい一歩を踏み出そうとする決意が芽生え始めていた。