今日は、カレンダーに載っているどんな祝日でもない。ただの平日。特別なセールもイベントもない、普通の一日。けれど――私たちにとっては、大切な記念日だった。
初めて触れられて、怖くなかった日。過去に何度も震えた指先で、あの日だけは、自分からそっと彼に触れた。戸惑いながらも、震える私の手に、遼が同じだけの優しさを込めて、手を重ねてくれた。
心臓が跳ねた。喉が鳴るくらい驚いた。でも、不思議と――逃げようとは思わなかった。あの瞬間、私は初めて、「誰かの手」に包まれて、安心していた。
あれから、季節が巡って、いろんなことがあった。たくさん泣いて、笑って、時には喧嘩して、また笑って。
そして今日。私たちは、いつもの純喫茶にいた。
古くから営業している、ちょっとレトロな喫茶店。大きな窓から午後の陽が差し込んでいて、窓辺の席には、カーテン越しの柔らかい光が揺れていた。
遼はコーヒー、私はクリームソーダ。私たちの定番の組み合わせ。
ふと、グラスを見つめたまま私は言った。
「遼……今日ってさ、記念日なんだよ」
「え?」
少し驚いたように眉を上げた彼に、私はそっと笑って言葉を重ねる。
「私が……初めて、触れられても大丈夫だって、思った日」
その瞬間、彼の表情がゆっくりとほどけて、柔らかな微笑みに変わる。
「まじか。それ、言われたら泣くやつだけど」
「ダメ。泣いたら、また私に茶化されるよ?」
「マジかよ」
「うん。でも……そうやって、すぐ泣いちゃう遼くんも、大好き」
「恥ずかしいわ!」
私はテーブルの下で彼の手をぎゅっと握り直した。
あたたかい。手のひらの温度が、少しも変わっていなかった。
たぶん、気持ちも――きっと、同じ。
「じゃあさ、俺も、今日を忘れないようにしとく」
「覚えてる?」
「もちろん。……だって、あの日の輝星、本当に綺麗だったから」
「やめてよ。恥ずかしいじゃん」
「これでおあいこだな」
遼は、私と繋いでいない方の手でコーヒーカップを持ち上げた。てっきり飲むのかと思って見ていたら、ふわりと立ちのぼる湯気越しに、彼が微笑むのが見えた。その笑顔が、どうしようもなくあたたかくて、胸がきゅっと締めつけられた。
プレゼントも、ケーキもない記念日。でも、こうして――同じ思い出を、同じ席で、同じ温度で話せること。
それだけで、十分すぎるくらい幸せだった。
