わたしも、夕凪さんが好きです

 夕凪の告白から、数日が経った。

 なつめは、あの場で返事をしなかった――というより、できなかった。胸がいっぱいで、喉が詰まってしまって、声にならなかったのだ。でも自分の中に揺らぎはなかった。あのときの夕凪の声、まっすぐに向けられた視線、言葉のひとつひとつ。それらは何度も頭の中をめぐり、思い出すたびに心の中心がじんわりと温まっていった。

 そして今、ようやく気持ちを言葉にするための時間と勇気がそろった気がした。

 会社帰り。夜風が少しだけ肌寒さを運ぶ春の宵、ふたりはいつもより少し遠回りをして、川沿いの静かな道を歩いていた。街灯がぽつぽつと灯り、水面にはビルの灯りが細い帯のように揺れている。車の音は遠く、聞こえてくるのはふたりの足音と、どこかの木立で風に揺れる葉擦れの音だけだった。

「この前の、夕凪さんの言葉……ずっと考えてました」

 小さな声で、けれど確かな意思を込めてなつめは言った。隣を歩いていた夕凪が、それに気づいて少しだけ歩調を緩める。

「はい」

 短く返ってきたその声には、急かすような響きはひとつもなかった。なつめの言葉を、最後まで受け取る準備ができている――そんな、優しさが含まれていた。

「考えて……というより、本当は、最初から答えは決まってたのかもしれません」

 言いながら、なつめは歩みを止めた。ゆるやかに振り返ると、夕凪が穏やかな表情のまま立ち止まっていた。

「わたし、あのとき、すぐに好きですって言えなかったのは……ちゃんと伝えたかったからです」

 その声に嘘はなかった。春の夜風がふわりと髪を揺らし、なつめの頬を優しく撫でていく。街灯の淡い光が、彼女の表情を柔らかく浮かび上がらせる。

「わたしも、夕凪さんが好きです」

 告白の返答は、小さくても凛とした声だった。揺れのない、まっすぐな言葉だった。

「最初は、尊敬からでした。でも、優しくて、見ていてくれて、寄り添ってくれる夕凪さんに、どんどん惹かれていきました。わたしの努力を信じてくれた人に、今……ちゃんと、想いを返したいって思ってます」

 夕凪は一言も挟まず、静かにその言葉を聞いていた。やがて、少しだけ目を細めて、深く頷く。

「ありがとうございます。朝比奈さんが、そう言ってくれて。私は本当に、幸せです」

 その優しい声に、なつめはふっと笑って、口元を押さえる。

「ふふ。……言わせておいて、ちょっとずるいですよ?」

「では、次はこちらから」

 そう言って、そっと手が差し出された。迷いも遠慮も、もうそこにはなかった。目の前の人に、気持ちをまっすぐ差し出すその所作が、あまりに自然で――けれど、あたたかかった。

 なつめは、ためらいなくその手を取った。指先が触れ合って、しっかりと絡んで、混ざり合う温度がふたりの間に静かな実感をもたらした。

「……あったかいですね」

 思わずこぼれた言葉に、夕凪はそっと笑う。

「あなたの手が、です」

 ふたりはそれ以上、何も言わなかった。けれど、何も言わなくても、十分に通じていた。つないだ手のぬくもりが、言葉以上の想いをやさしく伝えてくれていた。

 街の喧騒が遠ざかり、夜の静けさがそっと包み込む。水面に映る光が、ふたりの影とともに長く伸びていく。

 これまで何度も並んで歩いた道。その風景は変わらないはずなのに、今はまるで、まったく違う世界のようだった。初めて手をつないだこの夜のことを、きっとずっと覚えているだろう――そんな予感が、なつめの胸に静かに宿っていた。

 会話は少なくても、心は確かに隣にある。

 ふたりの関係の始まりは、こんなにも静かで、優しい温度で包まれていた。