「ん、……あれ?」
ぼんやりとまぶたを持ち上げたとき、視界の端に淡いグレーの布が映った。肩に、何かがふわりとかかっている。指先でそっと触れると、それはほんのりと人肌のぬくもりを残したカーディガンだった。
「これ、夕凪さんの……?」
まだ少し眠気の残る頭で周囲を見回す。サークル室には、もう人の気配はなかった。窓の外では陽がゆっくりと傾きはじめ、光が長く伸びた影をつくっている。さっきまでいた誰かのぬくもりと、残された静けさだけがそこにあった。
ふと視線を落とすと、膝の上に開かれたままのノート。そこには途中まで解きかけたアルゴリズムの問題が残っていた。記号の流れ、途中の書き込み、書きかけのメモ。そのすべてが、自分がいつの間にか眠ってしまっていたことを物語っている。
「夕凪さん」
そっと名前を呟いた瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなる。呼んだだけで、何かが胸に灯るようだった。少しだけくすぐったくて、少しだけ恥ずかしい。けれどそれ以上に――嬉しい。
わたしが眠っていたことに、気づいてくれていたんだ。
しかも、起こさないでいてくれたなんて。
それに、何も言わずに、こんなふうにカーディガンをかけてくれるなんて――。
こんなやさしさ、ずるいなぁ。
思わず、そっとカーディガンに顔を寄せる。微かに、清潔感のある石鹸の香りがした。いつもは気づかないその香りが、今は妙に近くて、心にじんと染みていく。安心するような香りだった。
――と思ったそのとき。鼻先をかすめたのは、石鹸だけではない。
ふわりと、ほんのり甘くて静かな香り。記憶の奥に微かに残っていたそれに、はっとする。
これ、香水の匂い……夕凪さんの?
胸がどきんと跳ねた。気のせいじゃない。あの人がすれ違ったとき、ふと感じたことのある香り。それが今、自分の鼻先にある。
そして次の瞬間、急激に恥ずかしさが押し寄せてきた。
ちょっと待って、私いま、カーディガンの匂い、嗅いでた!?
自分のしていることに気づいて、慌てて顔を離す。誰も見ていないのに、頬がじわっと熱くなる。心臓の音が、自分でもうるさいくらいに高鳴っていた。
なんで、こんなに意識してるんだろ。
でも、感じた香りを否定したくなかった。優しくて、落ち着いていて、どこかあたたかい。きっと、夕凪未来そのものみたいな香り。
――頑張ってるの、見てくれてたんだ。
そんな確信に似た思いが、胸の中に広がる。誰にアピールするでもなく、ただ机に向かっていた自分を、見つけてくれた人がいる。言葉ではない優しさが、確かにそこにあったのだと知ることが、こんなにも心をあたためてくれるなんて。
そっと、もう一度ノートを開く。ページの上には、自分の字で走り書きされたメモがある。
「※ここの分岐、条件に注意」
その書き方に、少し笑ってしまう。たぶん、眠気と必死さが混ざった顔をしていたんだろうなと、ぼんやり思い出す。
「よし、もうちょっとだけ頑張ろう」
まだ頭は少し重い。けれど、それ以上に心が軽かった。あの人がそっと置いていったものは、ただの衣類じゃない。気づいて、見守って、そばにいてくれた証みたいなものだった。
ペンを取って、もう一度文字を走らせる。
誰かに見せるためではなく、自分のために。
でも――きっと、いつか。
この努力を見ていてくれる人がいるって、知っていること。それだけで、不思議と前を向けるような気がした。
外の空は、茜色を帯びながら、夜に近づいていく。 その変化を、ひとりじゃないと感じられる今が、少しだけ嬉しかった。
