ページの間に挟まれた付箋が増えていく。遼は紫苑から借りた心理学の本を、寝る前に数ページずつ読み進めていた。
『トラウマ反応とは、課外でなく環境に反応している事が多い』
『安心の再構築には、対話よりもまず予測可能な関係性が必要』
なるほど、と遼は思う。つまりはあの子をびっくりさせたのがいけなかったということ。驚かせない、追い詰めない。こっちから近づきすぎない。なら、どうすれば良いか。
――同じ目線に立って、ただ「そこにいる」ことから始めよう。
サークル活動日。その日は全員で新作ミニゲームのアイディア出しだった。
「そのモンスター、動きエグくない?」
「いやでも、逆に味じゃない? 攻撃範囲バグってるけど、愛着ある」
「やば、ボスにしては顔が可愛い」
ワイワイ盛り上がる中で、遼は一歩引いた位置にいた。常であれば誰かの肩を叩いて「ナイス発想!」と絡んでいただろうが、今日はあえてそれをやめていた。代わりにメモを取る。言葉を拾う。アイデアの矛盾や、ふと出たヒントの断片を整える役に徹する。そうやって遼は居場所を作っていった。
「朝比奈さん、それ、全部まとめてたんですか?」
片付けの途中で遼に声をかけてきたのは輝星だった。驚いたが声にはせず、穏やかに返す。
「うん。言ったことが面白くて。後で整理すれば、次に活かせるかなって思ったんだ」
輝星は一瞬考えるように視線を落とした後――小さく、頷いた。
「助かります。ありがとう」
たったそれだけの言葉だった。でも、あの拒絶の後に彼女の口から自然と出てきたありがとうという言葉。それは遼の中でとても大きな意味を持つものであった。
別れ際、後ろから小走りで遼を追ってきたのは矢野だった。
「なあ、遼さん。最近、鈴木さんとの雰囲気、ちょっと変わってないっすか?」
「え、マジ?」
「いや、なんか前より視線を合わせているというか、会話も少しずつ普通になってきてるし」
矢野が遼を見上げると、少し照れくさそうな表情が見える。遼は笑っていた。
「じゃあ、俺の引き算作戦は、効いてんのかもな」
「引き算……?」
「近づきすぎないように、でも、近づく。……芸術家ってのはな、時に引いて見るんだよ。線を描く前に」
帰宅後はスケッチブックとにらめっこ。いくらか描いて、それをめくる。
前に描いた伏し目がちな彼女のページ。その隣にもう一枚書き足した。少しだけ視線が前に向いた、同じ彼女の絵。今はまだ、本当の笑顔じゃない。でも、遼には確かに距離が知事待った分の変化が感じられていた。
まだ、渡さない。でも、描き続ける。
遼は鉛筆をそっと置いて、目を閉じた。まだ、始まったばかりだ。だけれど、ようやく入り口に立てた。そんな気がしていた。
