霧雨が降る森の中、ことりおばけは成仏して、森番の必要は無くなった。須賀の声は戻り、そうして『これから』を考えることができるようになり、そうして悩むことになった。
「しぃ、ちゃん」
「なぁに、須賀くん?」
シオリと須賀がことりおばけとの約束をしたあの日から、須賀は己の一生を以てしてもシオリのことを守り続ける、ことりおばけとの約束に一生を縛られてたった一人きりで生きていくのだと、そう決めていたのだった。その思いが、シオリに健やかに幸せに生き続けて欲しいという想いのこもった願いが、石に宿った。そうしてその石で浄化された森の全て。
須賀は今日も資料館の中で悩み続ける。それは自分の今後だったっり、それから。
「本当にどうしたの、須賀くん?」
「な、なんでもない。資料の持ち運びをするときは気をつけてって言いたかっただけだから」
目の前で不思議そうに首をかしげている神崎シオリその人のことであった。
シオリは昔と全く変わらない。須賀はそう思っている。確かに都会で暮らしていた影響か、自身が住んでいる場所とは全く異なる雰囲気を纏っていたが、大本は変わらないのだ。
初めて今の彼女を目にしたときには昔の彼女よりずいぶんとかわいらしく、そうして少しだけ頼りなさげな雰囲気をしていたことから、ずいぶんと変わってしまったものだと思った。けれど、村の人々とふれあっている姿、困ったひとを放っておけないところ、また、少しやんちゃなところなど、一緒に過ごせば過ごすほどに昔を思い出し、本当に変わらないものだと気がついたのだ。
そうして、そして……。
須賀はそれ以上を考えてしまいそうになり、首を振る。これ以上は考えてはいけない。
須賀とシオリは須賀家と神崎家の先祖のことを理解している。そして、ことりおばけになったものと、そうなってしまった原因の男、その男の執念についても理解していた。あの執念を、彼の粘つくような想いを自分も受け継いでいる。そう考えると、今すぐにでも離れるべきなのかもしれないと言う思いに駆られる。けれど、『大丈夫』と言ったことりおばけの子供の声、そしてシオリ自身からもその言葉をもらった須賀。彼は素直に、十八のときになって初めて幼馴染みに恋心を抱いたのだった。
全く、守りたいという想いがいつからこんなに欲に汚れた、汚らしい、穢らわしい、そんな想いになったのだろう。それはシオリに再会してからか、一緒に過ごす中でなのか、それとももしかしたら、ことりおばけと最初に対峙したときか、それよりもっと前からなのか。
それでも、それだったとしても。須賀にはシオリを守りたいという思いはあったし、できることなら彼女に幸せになって欲しいという思いもあった。だから、取り戻した声で今日も彼女の名前を呼ぶ。
「しぃちゃん」
「……、なぁに、須賀くん?」
「えっと、その」
「うん」
「僕は、僕はね……しぃちゃんのことが、好き、だよ」
「……!私も、須賀くんのこと、好きだよ?」
シオリは何度も自分を呼ぶ須賀に対して嫌な顔一つせず、だけれど一瞬視線を逸らして考えるようにし、そう答える。須賀はそうじゃないと、自分のことはできれば嫌いになって欲しい、少なくとも好意を向ける相手ではないと理解して欲しいと心の中で叫びたい気持ちに駆られつつ、シオリを見た。
「しぃちゃん、僕は……」
「須賀くん、私はね。私は小さい頃、須賀くんのことを少しは弱虫だなって思ってた。もっと立ち向かえばいいんじゃないかって思ってた」
「……」
「それでもね、好きだったし、今でも友達としてもそんなところ含めて好きだよ。……でも、須賀くんが言いたいのはそういうことじゃないよね?」
「うん。僕は、しぃちゃんのことが友達とかとは違う意味で好き。だから、僕から離れて欲しい。僕の知らないところで幸せになって欲しい、そう思ってる」
「……、やっぱり。須賀くんってばそういうところあるよね」
その気持ちは嬉しかったけど、それはそれとして今のところは怒っても良いところだよね。シオリは頬を膨らましながら須賀に問いかける。何のことだか分からない。それでもシオリに怒られるのは嫌だ。須賀はビクビクとしながら続きが話されるのを待つ。
「私もね、須賀くんのことが友達以上に好きだよ。できれば一緒に幸せになって欲しいと思ってる。それじゃダメかな? 好きな人同士が一緒にいて、一緒に幸せになって、それじゃダメ?」
「それは」
ダメ、ではない。それでも、自分なんかに幸せになる資格だなんてあるのだろうか。幸せになって良いのだろうか。森に入ってはいけないという、そんなちっぽけな約束すら守れなかった自分に。
「幸せになってはいけない、って考えてる? 須賀くんって自罰的なところがあるからそんなこと考えてるのかなって思って。……わたしね、思うの。人って誰もが幸せになる権利があるって。うまく言えないけど、それでも、少なくとも私は須賀くんには幸せになって欲しいって思ってる」
「それは、僕もだよ」
「うん、だから、同じ。二人でできたら幸せになろう?」
「……、分かった」
良かったと目の前で温かな日差しのようにはにかむシオリに頬が熱くなる。今までこんなことほとんど無かったのに、こんなことで大丈夫だろうか。自分のことながら恥ずかしいと思いつつ、仕切り直しと口を開こうとしたところで、シオリが「あっ」と声を上げた。
「あ、あのね。雰囲気壊しちゃうかもしれないし、私も好きって言ったけど、付き合うとかそういうことはまだでもいい、かな?」
「何か都合の悪いことがある?」
「都合の悪いことじゃないけど、私なりの贖罪、みたいなものかな?」
「贖罪?」
「うん。今まで須賀くんを縛ってきたから。須賀くんの失った時間の分だけ、自由な時間を持ってはもらいたいなって」
「失っただなんて」
自分はしぃちゃんを守ってきた間の時間を失った時間だなんて考えていない。それでもシオリは自分のことを考え、そうして話そうとしてくれているのは分かっていた。
「私の勝手な考えだけど、付き合うとかそういうことは十年後。その十年の間に須賀くんは自由に自分のしたいことをして、自分と向き合って欲しい」
「自分のしたいこと」
「うん。今までは私のことだけを考えていれば良かったでしょ?でも、そうじゃなくて……十年間自分と向き合って、その上で私を選んでくれたら嬉しいなって。勿論その結果別の道に進んでも良いけどね。って、これだと私のわがままみたいだね。でも、それでもいいかな?」
失った時間の分を得て、自分の進む道を考えて、自分の中で折り合いをつけて。今の状態で関係を築いても良い関係となるだろう。それでも、シオリがそう望んでくれるなら。十年間、彼女の時間をもらって考えても良いのであれば。
須賀が口を再度開き、シオリが須賀に飛びつくまであと三秒。空気を読んで書棚の裏に隠れていた佐久間がさらに出られないと頭を抱えたり、佐久間を迎えに来た望月が来るまであと少し。
いつもの賑やかさがやってくるまでの少しの間、須賀は抱きついてきたシオリの腰に腕を
回すか、それとも回さないか考え、そうしておどおどとするのであった。
