受診

 知らない駅で降りるのも輝星には少しだけ勇気が必要だった。スマホで何度も地図を確認して、道を間違えて、ぐるぐるして、ようやくたどり着いたクリニックの看板を見上げる。

 早めに向かっておいて良かったと思った。看板を見つけた時間は、ちょうど予約の十分前であった。看板は控えめで、入り口も普通の雑居ビルの一室。メンタルクリニックの文字が、あまりに静かにそこにあった。

 輝星は受付で名前を告げ、番号札を受け取った。待合室には他にも何人か人がいたけれど、みんな静かで、なにも喋らない。沈黙が不安を煽る。それでも、その空気すら自分に必要な場所だと、どこかで理解していた。

 そうして暫く待っていたところで番号が呼ばれる。立ち上がったときに、手が少し震えていた。

「こんにちは、はじめまして。今日はどうされましたか?」

 診察室の奥。机の向こうで穏やかな声が響く。年配の女医だった。眼鏡の奥の瞳が、優しくも輝星をちゃんと見る目をしていた。

 何から話せば良いのだろう。

 いきなり涙ぐみそうになって、輝星自身が驚いた。慌てて耐える。けれど、女医は急かさなかった。ただ、数秒の沈黙を許してくれる空気がそこにあった。

「人が、怖いときがあります。……とくに、男の人が……です」

 声が掠れていた。それでも、輝星が口にした言葉を自分で認められた瞬間に、何かが少しだけ軽くなった。

「そうですか。それは、ずっとですか? それとも、あるきっかけが?」

「たぶん、きっかけは、あります。思い出したくないけど、あります」

 医師は頷いて、メモを取りながら続ける。

「怖いと思って良いんですよ。それは正常な反応なんです。……そして怖いと感じる自分を嫌いにならないで欲しい」

 その言葉に、輝星の視界がぼやけた。

 ……何でこんな簡単な言葉で泣きそうになるんだろう。

 簡単な問診が終わって「初回なので、軽めの抗不安薬を出しておきますね。もし、夜眠れないようなら、相談してください」と説明を受ける。薬の袋を受け取って、薬局の自動ドアを出た瞬間。輝星は空を見上げた。

 夏の終わりの、少しだけ湿気った風が頬を撫でる。

 来て良かったかもしれない。そう思った。心からそう思った。そして、誰かにこのことを言いたくなった。「今日、病院に行ったんだ」と。それを伝えられる人が、輝星の中で一人思い浮かぶ。

 あの人にだけは、言って良いかもしれない。それが誰かは、言うまでもなかった。