夕凪未来は、自分の感情に疎い方ではなかった。むしろ、客観的に物事を見て、感情の動きにも整理をつけながら過ごす日々に慣れていた。けれど、それはあくまで整理できる範囲の話であって、どうしようもなく胸に残る空白には、まだ名前を与えられずにいた。
なつめが合格した日から、数日が経った。
「わたし、次は簿記をやってみようかと思ってるんです。会計補佐ですし、少しでも役に立てたらって」
そう笑っていた彼女は、とても眩しかった。今もサークルには参加しているし、話す機会がまったくなくなったわけではない。それなのに、夕凪はどこか胸にぽっかりとした感覚を覚えていた。
何かを失ったわけではない。自分の立場も、彼女との関係も、以前と何ひとつ変わっていないはず――なのに、ふとした瞬間に思い出すのだ。
机を並べて問題を解いた日。苦戦した問題を前に、彼女が眉をひそめていた顔。ふと目が合って、小さく笑ったその表情。
もう、あの時間は戻らないのだと。そう思ったとき、胸に湧き上がる感情の名を、ようやく知った。
「……寂しいんですね、わたしは」
ぽつりと、自分でも驚くほど静かに、その言葉が零れた。
彼女が離れたわけではない。嫌われたわけでも、疎遠になったわけでもない。でも、教えるという役割の中で隣にいた自分が、今はそこにいない。彼女がひとりで歩き出したことが心から嬉しくて、でもほんの少しだけ、置いていかれたような気がした。
そんなことを、わたしが思うなんて、意外だった。けれど、否定する気にはなれなかった。それだけ、あの時間が、自分にとって意味を持っていたのだと、ようやく気づいたのだ。
彼女と過ごした時間は、教える者と学ぶ者という関係以上に、自分の心にとってひとつの日常であり、居場所だったということに。
けれど、それでも――心のどこかで願ってしまう。
もし彼女が、何かにつまずいたとき。もし、わからない問題に出会ったとき。もう一度、自分の名前を呼んでくれたら。頼ってくれたら。
そんな自分勝手な期待を抱いてしまうのは、卑怯だろうか。
彼女は今、自分の足で歩こうとしている。それを誰よりも応援したいと願っていたはずなのに、その一方で、手を伸ばしてほしいと願ってしまう心も確かに存在している。
自分は、なぜ彼女の成長をこんなにも嬉しく思いながら、こんなにも苦しくなるのだろう。
それが、恋だと言われたら、きっと否定できない。
ただの憧れや好意ではない。ひとりの人として、彼女のまっすぐさに、素直さに、そして努力を続ける姿に、確かに心を動かされていた。
でも、それを口にすることは、まだできなかった。彼女の歩みを止めてしまう気がしたから。自分の気持ちを押しつけることが、彼女の選んだ未来の邪魔になるかもしれないと怖かった。
だから今日も、そっと見守る。
教えることは終わっても、彼女のそばで、変わらずに在り続けることができたなら――それだけでも、今はきっと、十分だ。
