夕日の中で

 玄関を閉め、靴を脱いで。遼が部屋にいるという空気がじわじわと広がっていく。ベッドをソファ代わりに座って、彼がコンビニで買ってくれた飲み物を並べて、それを二人で飲んで、たわいもない話をして、笑って――。

 でも、心臓の奥ではずっと、もう一つの言おうとしていた言葉が渦巻いていた。

 言いたいことがある。何度も頭の中で練習した。でも、口に出すことは恥ずかしくて、震えてしまいそうで、それでも――言葉が不意に漏れた。

「ねえ……私から、誘っていい?」

「え?」

「えっと、その……ね?」

 視線を落とす。喉が焼けるように熱い。でも、もう隠したくなかった。全部を彼に渡したかった。

「触られるの、まだ、少し怖い。……でも、自分からなら、怖くないかもしれないって思ったの」

 静寂が、数秒だけ続いた。でも――。

「……輝星ちゃん」

 その声がどれだけ震えていたか。どれだけ強がっていたか。全部分かって、胸がぎゅっと締め付けられた。

「自分からなら、怖くない」って。それは彼女が記憶の傷を抱えたまま、今を愛そうとしているという事だった。そんな言葉、拒めるわけがない。でも、抱きしめてしまう前に、ちゃんと訊いた。

「本当に、いいの?」

 彼女は少しだけ震えながら、それでも真っ直ぐに頷いた。

「うん。……朝比奈くんが、いいから」

 抱きしめた。細い肩が腕の中に入った瞬間に、彼女がそっと目を閉じるのが分かった。キスはほんの短い間に。だけれど何度も触れる。触れるたび、指先が確認するみたいに小さく揺れていた。

 だけれど――彼女の方からも、シャツの裾を掴んで、ゆっくりと引いてきた。それは「触れて欲しい」というサインだった。

 ベッドの上で、橙色の光がカーテン越しに差し込む。まだ夜にはなりきっていない、暗くない。怖くない。ただ、二人の体温だけが、静かに重なっていく。

 本当に触れられている。でも、怖くない。むしろ、嬉しい。この人の体温が、自分の過去を塗り替えていっているようで――。

「……あったかい」

 そう呟いた私の声が震えたとき。彼は優しく、ただ一言だけこう言った。

「きみの手が、あったかくしてくれてるんだよ」

 涙が零れた。でもそれは、悲しみじゃなかった。怖さを乗りこえた先にあったのは、自分から運んだ愛の証だった。