心理学の本

 遼はサークルの空気にすっかり慣れていた。なつめはよく笑うし、矢野や井上ともそれなりに打ち解けてきた。

 だけれど、彼女だけは変わらない。

 輝星は、必要以上に遼に話しかけることはないし、遼から見て、自身の存在をどう見ているのかもよく分からなかった。ただ、きっとまだ危険人物なのであろうという想像だけはついた。

 遼が彼女を怖がらせてしまったこと。そして、それをどうしたら埋められるのか。その答えが未だに見つからない。

 なにかしたい。なにか出来ることが欲しい。画材を握る手に、力が入る。描くことは出来る。でも、それはまだ彼女の向こう側にある気がして。もっと近づきたいのに、どう近づけば良いか分からない――そのことが、焦燥感となって遼の胸を焼いた。

 その日、サークルの一角で遼は紫苑と隣の席になった。紫苑は日課のように分厚い文庫を読んでいた。表紙には『心理社会的アプローチ入門』というタイトル。むずかしそうな本だと遼は思った。

「それ、面白いの?」

 何気なくかけた声だった。紫苑はパタンと本を閉じて、チラリと遼を見た。

「うん。むずかしいけど、人間って何でそうなるの? って知りたいときに役立つから」

「へぇ。じゃあさ、そういうなんで? ってやつ、俺にも一つ教えてくれない?」

「輝星ちゃんのこと?」

 図星だった。遼は思わず眉を上げた。

「やっぱバレる?」

「初対面でプロポーズをした人がバレないと思っている方が無理があるでしょ」

 どこから漏れた情報だとため息をつきそうになりつつ、遼は紫苑を見た。紫苑は笑っていた。だけれど冷たい感じではない。むしろ、少しだけ優しかった。

「これ、もしよければ、……読む?」

 そう言って彼女は手にしていた本を差し出してきた。分厚くて、少し黄ばんでいて、所々に付箋が貼られている。

「心理学って万能じゃないし、解決にはならないかも。でも、解決のきっかけにはなるかもよ」

「いいの?」

「うん、別に。あ、ただし――」

 彼女はページの端を指で摘まみながら言った。

「一番後ろのページにサイン入ってるけど、気にしないでね。元彼の」

「マジで?」

 遼が驚いて覗き込むと、そこには癖の強い筆跡でAkinoとだけ書かれていた。印象的な丸文字。どこかナルシストっぽい感じがする。

「この『あきの』って人、もしかして――」

「うん。元彼。四番目」

 四番目。さらっとすごい情報をあっさりと出してきた。流石は紫苑さんだ。

 遼はゴクリと空気を飲んだ。

「……なんでこの本、まだ持ってるんだ?」

「読む価値はあるから。人間関係は壊れても、知識に罪はないでしょ?」

 そう言って紫苑はすっと席を立った。

「あ、言い忘れてたけど――来週から、ちょっとだけ来られないかも。別件で整理したいことがあって」

 その言葉には、どこか過去と向き合いに行く人の匂いを感じさせられた。

 帰宅後、遼はページをめくる。

 難しい単語が並ぶ中に、人は安心できないものを拒絶するという一文があった。続くのは、過去の経験に基づく条件反射は、意志とは無関係に生じることがある、という説明。

 ――そうか。

 輝星が遼に触られたときに見せた顔。それは遼に触れられたからではなく、過去の何かに反応したものなのだと気づく。

 自分は、安心できない存在だった。……悔しい。悔しいけど、でも。だったら俺は安心になりたい。触れたときに笑えるように。そばにいて、傷つかないように。もし、この気持ちが恋じゃなかったら、他に何があるんだろうか?

 ページの端に書かれたAkinoのサインにそっと指を置く。このサインのある本を、きっと紫苑も捨てきれなかったのだろう。遼はそう思った。

 誰かを好きになるって簡単じゃない。でも、それに向き合いたいって思える誰かに、出会ってしまったのだから。

 焦燥感は、好きの証明の始まりだ。そして、それはまだ始まったばかりなのだ。