「あの、夕凪さん」
サークルの活動が一段落し、メンバーたちがひとりまたひとりと帰路についたあと、片付けをしていたなつめが、不意に声をかけてきた。小さく通る声。けれど、その背中越しに届く声は、どこか少しだけ震えているようで。夕凪は動きを止め、静かに振り返る。
「どうしました?」
「えっと、これ、なんですけど」
彼女が差し出したのは、一冊のノートと数枚のプリントだった。
手書きの文字で埋められた演習問題。計算式、条件分岐、図表の穴埋め。余白には赤や青で書き込まれたメモ。どれも、丁寧に、真剣に解かれていることが伝わってくる。
「模擬問題、解いてみたんです。基本情報の、午後問題の方で。まだ自信はないんですけど、その、もしよければ……見てもらえたら」
視線を逸らしながらそう言うなつめの指先は、ノートの端をそっと押さえていた。震えているわけではない。でも、不安がそこに宿っている。
――これは、ただの添削じゃない。
彼女の中にある「わたし、本当にできてるのかな」という問いかけを、きちんと受け止めなければならない。夕凪は一瞬、姿勢を正すようにしてノートを受け取る。
「見せていただきますね」
ページをめくる。記述式の問題に対する答え。その下に書かれた、もう一段深い補足。別解の検討。小さな「なぜ?」と「どうして?」のメモ。
それらひとつひとつに、真剣な姿勢と思考のあとが刻まれていた。
「朝比奈さん」
「は、はい」
少しだけ肩をすくめるなつめ。その反応に微笑みながら、夕凪はゆっくりと言葉を紡いだ。
「とても、よくできています。記述の意図も正しく読み取れているし、回答の方向性も問題ありません。特にこの部分……業務フローと例外処理の関係、しっかり整理されていて驚きました。ここ、苦戦する人が多いところなんですよ」
「ほんとう、ですか?」
ぱちりとまばたきをしたあと、なつめの頬がじんわりと赤らんでいく。
嬉しさと、安心。きっとその両方が胸の奥で小さな波紋を広げているのだろう。
「はい。わたしも最初は、ここで随分つまずきました。けれど朝比奈さんのノートを見ていると、単に解くのではなく、背景にある理屈や構造をちゃんと理解しようとしていることが伝わってきます。それって、本当にすごいことなんです」
「嬉しい」
ぽつりと漏れたその一言が、まっすぐに夕凪の胸に届いた。
ただの問題演習ではない。数字や記号の下に、彼女の「やってみたい」「変わりたい」が息づいていた。
「わたし、ずっとできないって思ってたんです。勉強って、自分には遠いものだって。でも、こうして自分で解いて、夕凪さんに『いいですよ』って言ってもらえて……少しだけ、自分を信じられそうです」
「それは、あなた自身が信じることを選んだからですよ」
言いながら、夕凪はふと、彼女の頬の緩み方に目を留める。喜びのにじんだ笑顔。胸を張っているわけでもないのに、その表情にはまっすぐな力があった。
「また、見てもらってもいいですか?」
「もちろん。わたしにできることがあれば、いつでも」
返されたノートを胸に抱き、なつめは小さく息をついた。深くではない。けれど、確かな息だった。 静かな教室のような空気の中で交わされた言葉たちは、勉強という名の橋を渡って、ふたりの距離をまたひとつ、ゆっくりと縮めていた。
