昼休みの終わり、サークル室の扉をそっと開けたなつめは、手に一枚のカーディガンを抱えていた。淡いグレーの柔らかな生地は、丁寧にたたまれていて、その端には小さくシワが残っている。それは、夕凪未来のものだった。
直接、お礼を言えるかな。……起きたときには、もういなかったし。そんなことを考えながら室内を見渡すと、夕凪の姿はなかった。どこかほっとしたような、でも少しだけ寂しいような気持ちが混ざる。少し迷った末、なつめはカーディガンを夕凪の定位置の机に戻そうと近づいていく。
そのとき、不意に背後から声がかかった。
「あ、それ、夕凪くんのだよね?」
振り返れば、そこに立っていたのは同じサークルの先輩、紫苑だった。ゆるい笑顔と鋭い観察眼をあわせ持つ、どこか不思議な存在感の人。飄々としていて掴みどころがないのに、いつも核心だけは外さない。
「はい。前に、わたしがうたた寝してしまって。そのとき、かけてくれてたみたいで」
恥ずかしさと照れ隠しのように言葉を少しだけ濁してなつめが答えると、紫苑は「ふーん」と小さく笑ってから、意味ありげな視線を彼女に向けた。
「へぇ。……いいじゃん、そういうの」
「え?」
にやりとした笑み。なつめが思わず手元のカーディガンを見下ろすと、紫苑は肩をすくめながら、まるで独り言のように呟いた。
「夕凪くんってさ、ほんと優しくて、かっこよくて……いい男の人だよね」
「……っ」
一瞬、胸が強く掴まれたような気がした。
男の人――その響きに、なつめは戸惑いを覚える。今まで、そんな風に見たことなんて、なかったはずなのに。
夕凪未来。サークルの代表で、いつも穏やかで、静かに人の話を聞いてくれる人。誰に対しても公平で、困ったときにはそっと手を差し伸べてくれる。そういう人。でも、男の人。そう言われた途端に脳裏に浮かんだのは、昨日の温もりだった。肩にかけられたカーディガン。触れたときに感じた、体温と、香り。
「ふふっ、どうしたの? そんな真っ赤になっちゃって」
「な、なってないです!」
あわてて顔を背けるなつめに、紫苑は愉快そうに笑う。まるでなつめの反応を楽しんでいるかのようだった。
「ほんと~? まあ、わかるけどね。あの人、静かに人を見てるから。気づいたら落ちてるタイプだよ? 気をつけないと、どんどん好きになっちゃうかもよ?」
「っ、そ、そんな、変なこと言わないでください……!」
恥ずかしさのあまり、顔を両手で隠す。その手の中で、なつめの頬は熱を持っていた。逃げるように背を向けると、紫苑の言葉が、まるでいたずらのように追いかけてくる。
「……でもね、そういうのって、気づいちゃったら最後なんだよ」
返事をしようとして、できなかった。口の中に言葉が浮かんでは消えていく。ただ、抱えているカーディガンをぎゅっと強く抱きしめた。
夕凪未来は、男の人――。
その言葉が、胸の奥に小さな火をともしたように残る。これまで気づかなかった視点が、紫苑のたったひとことで、するりと心の奥へ入り込んでしまった。
返すつもりだっただけのカーディガン。それが今は、妙に体温を残しているような気がして――なつめは、そっとその感触から目を逸らした。
