男性恐怖症

 遼の初めてのサークル参加から数日。少しずつ雰囲気にも慣れてきた頃であった。その日も一通り作業が終わって和やかな空気の中で雑談が始まる。遼はなんとなく隣に座っていた輝星に手を伸ばした。

「髪の毛のここ、ごみが付いてるよ?」

 なつめにもするように、自然な動きだった。撫でるように指先で払おうとして――。

 バチンッ!

 鋭い音が響いた。叩かれた。遼の手の甲を、彼女の手が迷いなく弾き飛ばしていた。

「っ……!」

 輝星はその瞬間、遼以上に驚いたようであった。眉がひそみ、目が泳ぎ、手が震えていた。まるで自分自身が一番傷ついているように。

 遼は言葉を失ったまま、そっと手を引いた。「悪い」というには何かが違った。彼女の瞳の奥には、怒りではなく……恐怖と自己嫌悪があった。

 その空気を察したのか夕凪がすぐ間に入り、「すいません、朝比奈さん」と静かに割って入ってきた。その口調は礼儀正しくも、何かを庇うように優しかった。

 輝星は少しだけ夕凪の方を見た後、無言のままその場を離れていった。

 活動が終わり、皆が帰り始まる中。

 遼は、片付けを手伝うふりをして、夕凪に話しかけた。

「夕凪さん」

「はい」

「さっきのこと……あれ、どういうことなんですか?」

 一拍の間。

「あなたは何か知っているんじゃないですか?」

 遼の声には焦りと苛立ちが混じっていた。だけれどそれ以上に、あの反応の理由を知りたいという気持ちが勝っていた。

 夕凪は静かに手を止め、遼をゆっくりと見る。

「僕が初めて彼女に触れようとしたときも、同じように拒まれました」

「えっ」

「夜でした。道ばたで男に絡まれていた彼女を見かけて、助けようと駆け寄ったんです。……彼女は無事でした。ですが……僕の手を彼女は全力で振り払った」

 夕凪の言葉は淡々としているのに、どこか痛々しく響いた。

「その時、彼女は恐怖に震えていました。……僕のことではなく、男性という存在そのものに怯えているように見えました」

 遼の胸の奥が冷たくなる。あの瞬間に遼が見たものが、まさにそれであった。

「それって」

「私の推測ですが、男性恐怖症の一種ではないかと思っています」

 夕凪は静かにそう言った。確信ではない、でも、ただの推測とも遼は思えなかった。彼は彼女をよく見ていた。

「マジかよ」

 ぽつりと漏れた声は、遼自身が驚くほど弱かった。

 嫌われたんじゃない。自分の事がキモいからでも、変だからでもない。ただ――。自分が男だったから。

 それだけのことで、あんなにも苦しそうな顔をさせてしまったんだ。

 その夜、遼はスケッチブックを開いた。真っ白なページの上に輝星の輪郭をなぞっていく。目元、肩の線、唇のかたち。この絵は、まだ渡せない。けれど、遼の中にある「好き」という気持ちはもうはっきりとしていた。

 触れられないなら、描こう。拒まれても、見続けよう。あの子がいつか、自分という人間を恐れずに見てくれるその日まで。

 夜のとばりもすっかり落ち、朝のひばりが鳴き始めるまで。

 カーテンの隙間から入り込んだ朝日がスケッチブックを照らすまで、ただひたすら遼はそれに向き合っていた。