週末の夕方。春ももうすぐ来るといった少しだけ肌寒さを感じる室内。ゲーム合宿の休憩時間。なつめはレモネードの入ったコップを片手に、サークル共有の本棚を何気なく眺めていた。
TRPGのルールブック。誰かが持ってきたアニメ関係の雑誌、同人誌。それ以外にも資格試験の本が並んでいる。
「本、いっぱいですね」
「気になりますか?」
一緒に休憩だと、サークルの会計処理を行っていた夕凪が緑茶を持ってやってくる。
「はい。ここの本棚、ゲームサークルっぽいのも多いですけど、IT系の本も沢山あるんだなって」
「ああ、それは私が持ってきたんですよ。誰かが使ってくれたら嬉しいなと思いまして」
「夕凪さんが?」
参考書、試験対策のものが多く並んでいた。
「たとえば、基本情報、応用情報、PMP、あとはITILやアジャイル認定系もいくつか」
「え?」
なつめは一瞬でレモネードを吹きかけそうになった。慌てて口元を手で押さえて、驚いた顔で振り向く。
「夕凪さん、PMPって、あのプロジェクトマネージャーの国際資格の……!?」
「はい。取得したのは23歳のときですね。ちょうど社会人3年目でしたから、ちょうどいいタイミングでした」
「ちょっと待ってください、基本情報って、大学生で取る人が多いやつですよね?それも高三って」
「ええ、大学の単位を先に取っていたので、早めに時間ができまして。ちょうどいいかなと思いました」
「すごい……。すごすぎます!」
思わずぽかんと口を開けるなつめに、夕凪は特に得意気になることもなく、ただ淡々と続ける。
「でも、わたしにとっては必要だったから取っただけです。自分の進みたい道に、必要だっただけなので」
「進みたい道……」
なつめは、そっと口の中で繰り返した。自分には出来ないことだ。
「昔から、やりたいことが明確だったんですか?」
「いいえ。最初は分かりませんでした。ただ、何もせずに流されるのが怖かったんです。自分で選ばなかった結果に後悔するのが、一番嫌でしたから」
選ぶということ。自分の意志で道を決めるということ。なつめの中に、ずしんと響く言葉だった。
「私、逆だなあ。小さい頃からいい子でいるのが当たり前で。進路も、友達付き合いも、部活も、みんな流れで決めてきた。本当は、何が好きなのかも、何がしたいのかも、自分でちゃんと考えたこと、なかったかも」
沈黙が落ちる。でも、その空気は重くなかった。むしろ、その沈黙の中でなつめの中に何かが芽を出し始めているような、そんな感覚があった。
「……でも、夕凪さんといると、ちょっとずつ考えたくなるんですよね」
「考えたくなる?」
「うん。わたし、どうしたいの? って。今までは周りに合わせるのが正解だと思っていたけど、夕凪さんみたいに、自分で選んで進んでる人を見ると……かっこいいなって、思う」
夕凪は少しだけ、目を細めた。
「朝比奈さんも、ちゃんと自分で考えていると思いますよ。今、こうして言葉にできている時点で」
「そっか」
「ええ。でも、もし何か迷ったら、遠慮なく話してください。きっと、話していい場所は、ここにあるはずだから」
なつめは、初めて見るような顔で夕凪を見つめた。それは仲間としての信頼と、もうひとつ。芽吹きかけた、小さな覚悟のようで。
「……うん。ありがとう。夕凪さん」
その日、街灯の灯りがじんわり滲む夕方の道を、なつめはゆっくり歩いた。胸の奥で、小さな炎のような決意が、まだほのかに灯っていた。
「わたし、ちゃんと自分で、選んで生きてみたいな」
少し冷たい春の風が、そんな決意をふわりと包んでいった。
