週末の昼下がり。サークルの活動日でもないその日に、夕凪未来は近所の大型図書館の一角で調べ物をしていた。
たとえば、『部下が話しかけやすい上司の条件』や『炎上案件を避けるためのマニュアル』。あるいは、『沈黙力』や『伝わる説明の技術』。夕凪が向き合っていたのは、すべて誰かときちんと向き合うための知識ばかりだった。それらいくつもの必要な本を机の端に寄せる。
有限の時間に対して、気にしなければならないことなんて沢山ある。時間なんていくらあっても足りないのだ。それでも自分の背中を見て育つ後輩がいる限り、未来は学びを止めたくなかった。教えるためではなく誰かのために在るために、自分自身の軸を磨く。そう夕凪は思いながら、ページをめくった。
資料を一通りまとめ終えて帰り支度をしていると、ふと、窓際の学習スペースに目が吸い寄せられた。そこには見慣れた後ろ姿。柔らかな黒髪を耳にかけ、肩をすぼめるようにして机に向かっている。ゆっくりとノートをめくり、真剣な顔で参考書にペンを走らせるその姿。
朝比奈さんだ。
彼女は、誰かと一緒にいるときとは少し違う雰囲気を纏っていた。普段よりも口数が少なく、集中している。その手元にあるのは――。
表紙には、見覚えのある文字が並んでいた。
『基本情報技術者試験 出るとこだけ!集中対策』
間違いではない。先日、一緒に書店で見たシリーズだった。未来は声をかけようとして、一瞬だけ足を止める。言葉にしなくても伝わってくるものがあった。
誰かに認められるためではなく、自分のために始めた勉強。そっと、誰にも見られずに咲かせようとした芽。気づかれたくない、でも、本当は気づいてほしい。そんな微かな願いのようにも見えた。
……いい表情ですね。
静かに、そっとその場を離れようとする夕凪。だがそのとき、ノートのページが風にめくられ、なつめが慌てて押さえる仕草に気づいた。
「あ」
小さく漏れた声に、とうとうなつめが夕凪の存在に気づく。ぱっと顔を上げて、目が合った瞬間。
「あ……夕凪さん!?」
「こんにちは、勉強中だったんですね。すみません、邪魔してしまいましたか?」
「い、いえ、あのっ、たまたま空いてた席に」
言葉を探すようにうろたえるなつめに、夕凪はそっと微笑む。
「頑張ってますね。すごい集中力でした。話しかけるのをためらうくらいに」
「っ、見られてたんですね。恥ずかしい」
なつめがノートをそっと閉じて、頬を染めながらも口元に笑みを浮かべたとき、夕凪は少しだけ真面目な顔になる。
笑うと、こんな顔をするんですね
心の奥で、そんな言葉が浮かんでは消えていく。その笑顔を見るたびに、なぜこんなにも胸があたたかくなるのか。理屈では説明できなくても、彼女の努力が誰よりも美しく見える理由は、もうきっと分かっていた。
「誇っていいことですよ。誰かに言われてじゃなく、自分で選んで努力している姿は、何よりも美しいです」
その言葉は飾り気のない、ただの事実だった。でもなつめにとっては、思わず胸が熱くなるほどの、温度を持ったひとこと。
「ありがとうございます。もうちょっと、頑張ってみます」
「ええ。応援していますよ」
図書館を後にする夕凪の背を、なつめはしばらく見つめていた。
ひとりで勉強していると思っていた。でもあの背中が、そっと風を送ってくれていたのかもしれない。そう思うと、不思議と肩の力が抜けていく。
『応援していますよ』
その一言だけでまたひとつ、ページを進めたくなる。ペンを握る指先が少しだけ軽くなった気がした。そんな風に思わせてくれる人が、いつの間にか、自分のすぐそばにいるのだった。
