誰かの絵を描くとき。遼はまず、線を観る。輪郭の柔らかさ、眉の角度、睫毛の流れ。その人が今までどんな風に笑い、どんな風に泣いてきたか。全てが、顔のどこかに滲んでいる。
遼から見て、彼女――輝星はとても複雑だった。
視線は強い。けれど、そこに張られている皮膜のようなものがある。他人を見ているようで、見ないようにしている目。少しの無音で崩れそうになる輪郭。誰にも負けない強さといい、誰よりも壊れやすい同盟差が、同居していた。
「やっぱり、むずかしいな」
アトリエ代わりに借りた一室。机の上、スケッチブックには、何枚もの輝星があった。正面、横顔、笑った顔、考えている顔。そのどれもが、遼の好きを詰め込んだ。いびつな恋文だった。だけれど、どれもまだ違う。どの線も、まだ彼女には届かない。彼女の内面には触れていない。
あの日の叩かれた手の感覚はまだ遼の中に残っている。それは痛みと言うよりも、拒絶の温度だった。でも彼が、もっと強く覚えているのは――。あのときの輝星の顔だった。叩いた瞬間、自分を責めるように目を伏せた。こんな反応をしてしまった自分に傷ついていた。遼よりも、ずっと深く。
そんな顔、させたくなかったのに。それなのに、俺は彼女に近づこうとした。触れて、笑わせて、惹かせようとした。男として。
遼は一層鋭く、鉛筆を振り下ろして線を描いた。それは自分の行動をいさめるようであった。
焦りすぎたんだ。今の彼女には、ただ近づくこと出すら刃になりうる。夕凪の話で遼にはそれがよく分かった。
何時間も集中して、何枚も彼女を写す。もう何枚描いたかも覚えていない。それらを見直し、ページをめくる。そして、ふと一枚の絵が目に止まった。目線が少しだけ伏せていて、でも何かを言いたげな顔。不安と強がりが一緒くたに詰め込まれた繊細な表情。
――これだ。
遼は初めて「描けた」と思った。輝星の本当の顔。けれど、この絵は渡せない。
きっと渡したら、彼女は困る。優しさとして受け取ってくれるかもしれないけれど、無理をして笑うだろう。そんな笑顔は見たくない。
「……今は、見ているだけでいいか」
芸術家は時に作品を世に出さない。完成した瞬間が、すでに過去になるのが分かっているから。今の彼女は、まだ書き続ける対象だ。だからこれは、完成じゃない。まだ途中。まだ途中なんだ。
遼は手のひらでそっとスケッチブックを閉じて、目をつむる。
もうすこしだけ、近づいたら。もう少しだけ、怖がられずにいられるようになったら。その時にできた一枚を渡そう。そうして、ちゃんとした言葉で伝えよう。
「これが、俺の『好き』です」と。
