35、感謝なんて
「いつもありがとう、オベロン」
「……」
絶句する、というのはこういった表情なのだろうか。
オベロンは立香の一言に身体を硬直させるだけでは飽き足らず、口を「は?」といった形に変えていた。
「おーい、オベロン、おべろーん?」
「……、ああ、すまない。きみの口からあまりにも突拍子のない言葉が聞こえてきたものだから、ついね」
「突拍子もないって何? いつも心の中では思ってることって、オベロン分かってるでしょ?」
確かに分かっていた。どんなに些細なことでもオベロンの目の前の彼女は感謝を忘れない。それを好ましく思っているところもあれば、そんな彼女だからこそ、良いように利用されてしまうこともあるのだと、苦々しく思うところもあった。
時刻は午後九時も過ぎている。場所はいつものようにマスターの部屋のベッドの上。部屋の主が帰ってくる前からベッドに寝転がってポテトチップスを食べていたオベロンは、帰ってきた立香を見た。眉間に一瞬皺を寄せたことから、いつものように小言を言われるのではないかと身構えていたところに、笑みを浮かべて「いつもありがとう」と言われたのだから、思わず硬直してしまったのだった。
「で、急に何でそんなことを言ったわけ? 何か理由があるんだろう?」
「理由? 特にないけど。あえて言うならいつも言ってなかったからなって」
例えば疲れすぎてるときにさりげなく寝かせてくれたり、精神安定の効果のあるお茶を用意してくれたりだとか、そんなこと。今までお礼を言おうとしても捻くれた言葉で封殺してきたからね。だからまとめてお礼を言おうかなって。
そんなことをごにょごにょと立香は言う。お礼なんて言われるような関係ではない。だから断るためにもそうやって濁していたのに。そんな気持ちにすら気がついて、それでも気持ちを無碍にするように、押しつけるように言葉を発したのだ。
全く、別方向にわがままになってるじゃないか。オベロンは眉をハの字にして情けなく笑う立香を見て、呆れたようにため息をつく。
きみに恨まれようがどうでも良い。きみに憎まれようが仕方が無い。存在理由として負の感情を向けられるのは嫌と言うほど慣れてしまっている。だけれども、苦笑と共に感謝の言葉を述べられるだなんて、自分には必要が無い。理解できるはずもない。勿論それだけではなく、きみだって俺以外も含めて誰かに感謝する必要なんか無いだろう。お前を巻き込んで、平和だったかもしれない日常を奪ったのは、奪い続けているのは、消費し続けているのは俺たちなんだぞ?
マスターのたった一言に、オベロンはイライラとした気持ちを炎のように燃え上がらせていたのだった。