70、給与三か月分
「あれ、ない……?」
「どうした?」
「いや、ボールペンがないなって」
忘れたことがない、忘れてはいけないヒトからもらったボールペン。いつもコーヒーを飲みつつ、サーヴァントではない人間の身体に鞭を打って、十年間を走り続けてきたヒトが使い続けてきたもの。偶然にも終局特異点に向かう前にドクター・ロマニからもらっていたボールペンが見当たらなくなっていたのだった。
本当に何処に置いてきてしまったのだろうか。恋とは違っていたけれど、それでも大切だった彼との思い出を不注意で消してしまうだなんてあってはならないと思い、探し始める。筆箱をひっくり返し、鞄の中身も全て出してみる。それでも見つからない。焦りながら部屋中を探し始める私に、ベッドの上からオベロンが再び話しかけてきた。
「それってそんなに大切なものだったわけ?」
「そうだよ。ドクターにもらったものだったし」
「へぇ?」
「オベロンも探してくれると嬉しいんだけど」
「まあ別に今は周回もなくて暇だし、構わないけど」
「それはごめんって」
いつもかり出される周回がなくて暇だなんて、よっぽどそのことに関しては怒っているんだろうなと思う。あとでいくらでも話だけは聞こう。皮肉も軽く受け流しつつ、探そうと机の下を隅から隅まで見た。
「きみの探してるボールペンってこれかい?」
「あっ、そう。それだよ! ありがとうオベロン!」
さっきまでベッドの下に手を入れていたオベロン。昨日の夜、遅くまでレポートを書いていた時にでも落としてしまったのだろう。安堵しつつ、オベロンから受け取ろうと近づくと、ため息をつきつつ取り上げられる。そのまま渡してくれるものだと思っていたので、伸ばしていた左手を前に出したまま、オベロンの胸にぶつかるように倒れ込んでしまった。
「っ!……きみさあ、流石に勢いよすぎだろ」
「ご、ごめんって。でも、オベロンだってどうして」
「きみが、きみの大切なものをあまりにも簡単に無くすからだろ」
「だからって取り上げることなくない?」
「別に取り上げるつもりはない。ただ」
「……?」
ボールペンに一度視線を向けるオベロン。それから背に腕を回される。何でここで抱きしめてくるの? 急な行動に顔に熱が集まった。
「きみに何か渡すなら、簡単に無くせない何かにした方が良いか? って考えただけだから気にしないで、リツカ」
「オベロン、ちょっと怖い」
「当たり前だろ。大切なものぐらい無くさないようにしろよ」
「はい」
腕を少しだけ緩められ渡されたボールペン。それを無くさないように、見つかって良かったと一度胸の前で抱きしめる。彼がいたという大切な証拠の一つになるもの。せめてこの旅路が終わるまでは見守っていてください。カルデアを思い出しつつそれを願い、目の前にいるオベロンにもう一度ありがとうと言う。
「お礼を言われるようなことはしてないんだけどな」
「そうだね、目の前で取り上げるとかね」
「だから、取り上げるつもりはなかったって言ってるだろ?」
「じゃあどうして」
「はぁ。ここまで言っても分からないのかよ。きみは俺にこれをつけただろ?」
回していた腕を片方解き、虫竜の左手を見せびらかすように目の前で振る。薬指には丁寧にも指輪がつけられていた。
「これのお返しをと思ってね。腐っても俺は王様だから。何かお返しをしたいと思って」
「別にそんなの良いのに」
「もらったままだと俺の気分が悪い。……けど、きみはものをすぐに無くすらしいからな」
「すぐに無くしてるつもりはないんだけどな。あ、でも、もし良かったらだけど……指輪をくれたら嬉しいかも」
「は?」
「左手の薬指に。君だってつけてくれてるんだから、おそろいにしたいって思って」
「正気なのか?」
「正気だよ? それともやっぱり嫌?」
「……」
はぁあ。大きなため息をつかれる。そんなに嫌だったのかな? 返事を待っていると、何かを考えるようにしてから、思いついたというように笑顔になった。
「一ヶ月……いや、三ヶ月待ってくれよ。良いものを用意してやるよ」
「えっ、本当に?」
本当だよと頭を撫でられる。そうして三ヶ月後。つけるのも躊躇するような繊細でかわいらしい指輪が彼から贈られるのだった。