76、ただ、彼女に安らかな幸せを
「オベロン、おはよう」
「ああ、きみか。おはよう。今日も良い天気だね」
秋も深まってきた、少しだけ爽やかな日差しの中。俺は藤丸立香と並んで歩く。教科書の入った鞄は重たいな。そんなことを言う彼女を鼻で笑いながらよそ見をして歩いていると、ばしゃんと液体に足を突っ込んでしまっていた。
「大丈夫?」
「ああ、大丈夫さ。こんなこと、いつものことだろ?」
「いつもって……まあ、そうだけど」
「きみが気にすることじゃない」
申し訳なさそうにする藤丸立香に、全くいつまで経っても、生まれ変わっても本当にお人好しなんだなと言いたくなった。
異聞帯の切除後。事が全て終わった後。藤丸立香は唐突に糸が切れたように意識を失った。後は帰るだけだけど、本当に日本に帰って良いのかなだなんて笑っていたのに、目の前で急に倒れたのだった。アスクレピオスやナイチンゲールの治療虚しく、後は死を待つのみとなった身体。彼女の事を先輩と呼ぶ女の子と同じように、残された寿命、そして運命力を使い果たしそうになりながら、今までギリギリで生きていたのだと言われた。
藤丸立香はどうやら生まれ変わっても運命力が低いままらしい。そう結論づけられたボーダー内で、ただ一人、乾いた笑いを漏らす。どうしてあの子が。どうしてただひたすら歩んできた普通の女の子、藤丸立香が、今の人生だけでなく、その先の生までも決められてしまうのか。いっそのこと全てを終わりにしてしまおうか。奈落へと彼女を誘うことで本当の終わりにしてしまおうかと考えるも、その考えを理解していたダヴィンチに止められ、囁かれた。
「オベロン、君の怒りはもっともだ。君の在り方、そして彼女へと抱いている想い。それを考えても考えなくても、立香くんは真っ当に生きるべきだ。私は少なくてもそう思っているよ」
「だったら今すぐにでも彼女を解放すべきだと思わないかな?」
「思いたい、思いたいよ。でも」
「人類最後のマスターの立場がそれを許さないって? あの子だって、同じことを言うだろうね。……まったくここはクソッタレのたまり場みたいなところじゃないか。たった一人を生け贄にして、それで人類史を存続させようとするだなんてな?」
「本来だったら私だってこんなことはしたくないんだよ。……君だって分かっているんじゃあないかい?」
「……」
分かっている。分かっていた。彼女はこんなことぐらいでは止まらないし、止められない。
「私は……どうしたら藤丸くんを止められるんだろうね。藤丸くんを、立香ちゃんを……私たちは、どうしたら」
「そんなことは」
自分で考えろ。そう言ってしまえたら楽なんだろうと思う。それでもそれを言えないのは、こいつらと同じようになりたくないと思ってしまうからであって、彼女に対して執着してしまっている自分がいたからであった。
全くもって、本当に自分でも馬鹿らしくなる。彼女を彼女のまま救う方法なんていくらでもあるだろう。それこそ本当に、魂までも捉えて奈落の底を一緒に目指すことだとか。ただ、彼女はそんなことをされて良い人間ではない。それは痛いほどに分かってしまっていた。そうして、彼女を自由に生きさせるためにできることがただ一つだけ残っていた。
「なあ、ダヴィンチ」
「……なんだい?」
「ここには確か、聖杯が沢山保管されているんだったよな?」
「ああ、そうだけど……って、もしかして君はそれを使うって言うのかい?」
「受肉させろとは言わない。けど、聡明な君にだったら分かるだろ?」
「分かる。でも、それは」
ふと思い浮かんだ方法。運命力。現世の彼女が助からないのであれば。それならば、せめて次の生では安らかに。
とある聖杯戦争で、あるサーヴァントは受肉を聖杯に望んだ。その結果として、一人の少女が歩むべきではない道を歩むことになった。聖杯にはそんな運命を変えてしまえるほどの力があるのかもしれない。それだったのであれば、未だ死に向かっているたった一人の少女の、次の生を約束された穏やかなものにしてもいいのではないか。
「君は、聖杯にそれを望むんだね」
「ああ、モノは試しって事でね」
「多分聖杯はそれを叶えない。または叶えてくれたとしても、その分の対価を君に求めるだろう。その覚悟はあるのかな?」
「対価? 覚悟だって? そんなもの、こんな場所に召喚された瞬間に持ったに決まってるだろ。クソッタレな場所でクソッタレなマスターに従わされること。おまけに今の俺を生み出した張本人だって存在している空間だぞ。狂いそうになる。……だからさ、さっさと聖杯をよこせよ」
「……ああ、分かったよ」
聖杯は渡される。それに願いを告げる。そうして、聖杯からかえってきた答え。運命力が足りなさすぎる彼女に与えられるもの。それは……。
「うわっ……」
「うわー、今日の本命は上だったね」
真っ白なベトベトとした液体がかけられた。それをかけた張本人はカーカーと電柱から飛び去っていく。上を向いて歩けば、水たまりを踏んだり、側溝を踏み抜く。下を向いて歩けば電柱に止まっていた鳥から糞を落とされる。それで済めばまだ良い。足で踏み抜いたところに車が突っ込んできたときにはひやりとした。ただ、それでも。俺が聖杯にかけたただ一つの願いは、叶っていたのだった。